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甲府ライオンズクラブ
Kofu Lions Club

〒400-0032
 山梨県甲府市
 中央1-12-37
 IRIXビル8F  地図
 TEL: 055-221-0808
 FAX: 055-221-0707
 E-Mail: info@kofu-lc.jp
 



 
日常の中にこそ『温故知新』!

 私たちはそれぞれの経験や価値観で、大概を昨日と同じような今日として、日々を生きている。それは平凡であると同時に平穏であると言う事の証で有るし、仕事にしろ、趣味の時間にしろ、家庭人としての営みであるにしろ過度な緊張に縛られる事もなく、唐突な負荷に立ちすくむ事のない日常はその事自体が実に尊いものである事は間違いない。


 しかし、しばしばふとしたきっかけで自分の仕事なり生活なりをじっくりと振り返る時、もしくは大なり小なりの課題や試練にぶつかって苦渋に満ちた時間を過ごさなくてはならなくなった時、そこに至るまでの経緯や、過ごして来た日々の所作や様々な取り組みなどについて、過去を省みて、そしてそもそもの初心にまで立ち返って再度の考察を重ねて行く事も余儀なくされる時が訪れる。

 過ぎ去って来た「故き」をまさに訪ねて、これから先の新たな糸口を辿る為のきっかけにする為に、である。

 また、このような難易度の伴う人生の局面から離れて考えてみても、平凡な日常の中、自らの生活のごく普通の景観の中に息づく過去の時間、そして歴史の中から今へと続いて来ているメッセージ、そういったものに向かい合い、その意味付けを知ると、゛温故知新“の発する知見の深さ、そして愉しさや歓びと言うものが皆しみじみと実感されると思う。

 過去(故き)から続く様々な知見の面白さ、今日にまで続きしっかりと脈打つ歴史や文化の継承の豊かさや愉しさ、そこに触れて掘り起こして明日からの自分の人生や時間と言うものの中にそれを活かして行く事。
それを一つの視点として、本テーマの゛温故知新“と言う言葉の発する意味を、今現在の自分の住む地域について、少し考えてみたい。



 私は現在、甲府市の若松町に家を構えている。私の家の前にはさほど川幅の無い゛濁川”と言う川が流れていて、かってこの周辺は色街としてたくさんの芸奴置き屋が軒をつらね、そして多くの高級料亭などが賑やかな営みを競っていたと言う。

 川沿いには柳の木が立ち並び風流な街並みの風情に一役かっていた。
夕方になると料亭の店先には来客をお招きする為に水がまかれ、ポツンポツンと屋号を知らせる表札に灯りが灯されたと言う。

 私が高校生の頃には、お隣りの『松中』と共に、『藤本』という料亭が有り、時折にぎやかな三味線や長唄、そして芸奴さんたちの嬌声などが聞こえて来たものだ。


 この私の住む若松町は、江戸時代には甲府城下町の1つだった「西一条町」と、「信立寺地内町」が明治9年に合併して成立した町となっていて、「新しい繁栄を願って」とか「新しく若々しい活気ある町となるように!」と言う意味合いから、この町名が命名されたらしい。

 その後明治27年に春日町、桜町に有った芸者置き屋が若松町へと移転させられた事で一挙に芸奴さん達がこちらに移り住み、当時400名を数えたと言われるほどの盛隆をみて『若松芸者』と言うものが生まれたらしい。

 当時の芸者さんは礼儀作法は元より、三味線や舞踊と長唄等の芸事全般を一流師匠に教え込まれていて、日本文化の担い手としてもその一端を担う存在でもあった。

 また、若松町の濁川沿いには、踊りのお師匠さんや各芸事の師匠がその技能の伝承に勤めていた。


 甲府の中心街の浅草通りに有る「花舞」と言うスナックのママさんは、現役バリバリの花柳流の名取りで有る。

 若松芸者を座敷に上げて、粋な長唄や三味線の音が夏場の窓を開けた私の部屋に響いて来る夜なども多々有った。
色気付いて来ていた四人兄弟の1番下の弟は、お隣りの料亭「松中」さんから流れて来る芸者さん達の艶かしい笑い声や、興が乗った時に繰り広げられる゛野球拳”の゛野球するなら~こういう具合にしやさんせ、投げぇたらぁこう打って、打ったならぁ~こう取って、”と続く小粋な歌声と、じゃん拳ごとに殿方もしくは芸者衆が1枚づつ身に付けたものを解いて行くと言う色道の狂騒に目と耳を奪われ、そんな夜には全く勉強など出来なかったとボヤいていた。



 さてこの「濁川」について少し「故きを訪ねる」事にしてみよう。

 文献に寄ると「江戸時代」にもこの川はこの名称で呼ばれていたと有る。
現役の甲府市の北部、山岳地帯に源を持つ高倉山、藤(富士)川や、立沼川、深町川などの諸川が旧城下町と里垣村の境に有った水門で相会してこの「濁川」となった。いわば甲府市の諸水を集める下水道ともいえるだろう。

 そしてこの「濁川」は私の住む若松町の前を通り、笛吹市方面より流れる平等川と並行並走して流れて、甲府盆地南部で笛吹川に合流する地点(シャトレーゼ本社及びよっちゃん食品工場周辺)が有る。

 また古くから市中を流れるこの「濁川」に関しては、長い間生活排水等が流され続けていた為、住民からは汚れた生活臭のする、文字通り「濁れた川」として認識されていたとの事であった。


         濁川

 しかし歴史を振り返るともう1つの大きな驚くべき側面がこの「濁川」には有った。

 それは明治初期までの時代まで、この川が甲府の中心に行く荷物を運ぶ為の流通路として利用されていたと言う事実で有る。

 市川三郷町辺りから笛吹川を逆流して今の小瀬スポーツ公園の東側を北上し、砂田町で西方面へと折れ、旧深町(城東二丁目、金手駅近く)へと入って行ったルートのようだ。

 富士川舟運で駿河から「塩」「乾物」「海産物」全般がこれを通して運ばれて来ていたとの事で、現在の笠森稲荷神社辺り(琢美幼稚園周辺)で荷をおろしたらしい。


 「濁川」を利用して運ばれる「塩」「海産物」が甲府市在住の人々の食卓を賄っていた為、若松町のこの「濁川」を挟んで南側一帯に「魚町」が五つに分かれて点在し、上、下連雀(れんじゃく )や、毎月三日、八日の日時に市場が盛大に開かれた事から為る「三日町」、そして「八日町」が並んでいた。

 「連雀」と言う町名も、仕入れに来た業者が、カゴや荷物袋などを背中にしょい込んで列を為して歩いている姿が、まるで雀のように見えた事から付けられたものだと聞いた事がある。


 また、富士川水流、もしくは静岡方面からの漁猟で運ばれた良質の「うなぎ」を使って、山梨県内で第1号店の「うなぎ専門店」として人気を博した「黒駒楼」も、この若松町の「濁川」近くに有り、今も古くからの顧客の熱い支持を得て営業を続けている。

 富岡Lのテニスクラブで「黒駒楼」の社長、渡辺さんとは、時折話をしたりテニスをしたりする仲なのだが、この「濁川」関連の話をした時、「三枝さんの今のご自宅辺りが歌舞伎座が有った場所らしいですよ」と言われて驚いた事が有った。


       黒駒楼


 次にこの「歌舞伎」について考えてみたい。


 どうやら江戸時代の中、後期から明治に掛けて、甲斐の国もしくは甲州は「小江戸」と呼ばれる程の興隆を見せていたようだ。

 その1つの象徴として、旧城下町周辺から若松町、そして太田町近辺に至るまでの町の賑わいが指摘出来ると思う。

 若松町そしてその周辺に有った「歌舞伎の講演が成された場所」を訪ねる作業は、当時の町の息づかいやそこに暮らす人達の生活の鼓動さえも聞こえて来そうなワクワク感が有ると思う。


 1764年 明和1年に亀屋与兵衛と言う人物が光澤寺境内に仮小屋を建てて、「三季芝居」を願い出たのが若松町にその後出来る事になる「若松座」の始まりのようだ。

 この「三季芝居小屋」は次第に人気を博して発展し、1803年には火災にあって焼失の憂き目を見たが、評判の高い芝居をしていたので、西一条通り(後の若松町)に大きな構えの芝居小屋として移転再業する事が出来た。この一連の流れから、後に「関東八座」の1つと言われる」亀屋座」へと変貌して行ったのだと推察出来ると思う。

 ここから以降、当時江戸(東京)で大劇場として揺るがぬ人気を誇っていた「江戸歌舞伎」の興業、これさえも甲府にて相次いで取り行ない、1822年文政5年には市川海老蔵(七代目團十郎)が来甲したのだ。この時には松本幸四郎などの人気歌舞伎役者も伴っての大々的な甲府公演だったので、絶大な人気と評判を博した!とある。

 初代市川團十郎が旧三珠町出身のため、甲府公演は七代に渡って継続されて来ていたとの事だ。

 その為この頃は甲府公演の出来具合で役者の給金が決められたとの文献が残されていて、当時、小江戸として甲府が繁栄していた様子がうかがい知れると思う。





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