゛温故知新”というテーマを掲げて頂いての1年であったが、この言葉の持つ力と言うものを幾度も認識させられた時間になったと感じている。 今年に入ってからのコロナ感染とその拡大の影響と、それに対応しての官民様々な対策と支援。企業、組織、家族、個人と言う立場での対策と苦慮。生活様式の根本的な変革と日常の中の生活習慣の見直しと調整など。医療現場の逼迫した状況を見据えながらの多岐に渡る課題が検討、そして修正など、私達が学び感じた事は相当の量にあたる。 この過程の中で1つ拠り所となったのが人類がその長い歴史の中で幾度か見舞われたペスト、コレラ、スペイン風邪など地球規模の驚異的な感染と、その流行の事実であり、その被害状況を辿りながら、当時の人々の辛苦と、悪戦苦闘を伴いながらも、怯まずにウイルスや細菌に立ち向かっていったと言う厚みの有る史実、闘いの歴史なのだと思う。 2020年、6月24日現在、ついに世界のコロナ感染者は900万人を超えた。そしてこれは明日にでも1000万人を超える可能性がある。 米国やブラジルをはじめとする南北米大陸での拡大が勢いを増し、過去最悪のペースで感染者が増え続けている事に脅威を覚える。 WHOは、「世界は危険な新局面に入った!」と深刻な警鐘を鳴らしている。 日本については、5月25日夜に新型コロナウイルス特別措置法に基づく、緊急事態宣言が全面解除され、さらに6月に入って順次各業種ごとに設けられた制約や他県への移動など、様々な規制が緩められていった。 日本では、コロナによる死者が欧米に比べて圧倒的に少ないとして海外から驚きを持って受け止められているという報を眼にしてすでに久しいが、時を経るに従い、この海外からの驚きは大きく、握手やハグをしない、室内への入出の折りに土足を禁じ外で歩き回った靴の使用を認めていないなどの清潔さを尊重する生活様式がウイルスに移りにくい社会を作っているのではないか、と指摘されている。 そして海外のように都市封鎖をしなくとも、罰則を伴う規制がなくても、外出自粛や休業の要請に準じて生活スタイルを対コロナ模様へと変えて行けた事への驚きも多大なもののようである。 生活の水準が向上していて、ある程度のレベルで安定していると言う日本社会の現状が衛生意識を高め、清潔な生活環境の維持向上に貢献しているという側面も有ると思う。 貧富の格差という点に関しても、現状混乱の極みに陥って、超大国の威信に亀裂が入っているアメリカなどに比べれば、過酷なまでに深刻では無いという事も認識出来るだろう。 その上で日本国民として育まれて来た゛素因”、民族としての結束力や他に準じて行こうとする融和性などが、罰則や強制的な縛りのない社会の中においても、速やかに「三密」を避け、ステイホームを自らに課して、外出自粛の呼び掛けを皆それぞれが受け入れてコロナ感染の拡大を最小限に防いだと考えたい。 日本人が持つ、清潔なもの、澄みやかで透明性の有るものに対しての憧憬と言うものが1つのオリジナルな価値観を心の根底にもたらし、そこから立ち登って来た衛生意識が、かっての疫病、現況のコロナなどに対しての、慎重で早急な国民的な反応としても表れるのだ。 私が以前携わっていた仕事柄の中でのエピソードを1つ選んでこの説明に付記させてもらうとすれば、料理のコースの中で添えられる「お吸い物」と言うものが上げられる。 私達は何気なく口にしているもので有るが、たとえば欧米などの一流シェフが日本料理の繊細で奥深い調理方法や調理理念に感心したり興味を抱く中で、最も驚嘆する1品!その1つがこよ「お吸い物」なのである。 出汁が効いていて季節に応じた様々な風味が有る。そしてその上品で有りながら濃厚な味わいを出しているこの「お吸い物」が、まさに清涼で透明である!この事に皆、眼を見張るのである。 フレンチにしてもイタリアンにしても、スープというものはとにかくじっくりと煮込んで風味を出す。したがって日本料理のこの「お吸い物」のように、スッキリと澄みきった透明なスープとしては成立しない道理となる。 ではなぜ日本の「お吸い物」はこのように透明感の有るものとして今日まで伝わって来ているのかと言う事について考えてみると、それはまさに豊かな自然と言う恵み、その恩恵の成せる技という所に行き着くのだと考えられるのだ。 そしてそこを突き詰めて行くと、辿り着くのは、つまり、『水』なのである。 世界で1、2を争う清涼で豊かな『水』こそが、日本民族の生活意識、食文化、信仰、そして相対的な価値観全般に深々と影響を与えているのだ。 私達の生命を育み、生活を成り立たせてくれている美しく澄みきった『水』、そこに対しての感謝と憧憬の想いが、「お吸い物」を産み出し、あまねく有能な料理の匠たちによって多種多彩に進化し今日に至っている。 そこからの強い感性の結び付きが日本人独特の衛生意識、清潔で有る事の大切さと言う方向へ日常の生活意識を運んで来ているのだと思う。 ここに来て全世界レベルで、「新しい生活様式」と言うものが提唱されて来ている。 新しいウイルスの感染などにも対応しての、人類全般の生き方の変革とも呼べるもので、三密(密集、密着、密閉)の徹底と共に身体的距離の確保、マスクの着用、手洗いの習慣などのより徹底した生活への浸透が推奨されている。 しかしながら先程の『水』資源と言うものに立ち返って考えてみる時、たとえばノーベル賞の受賞者の山中教授が注目して考察を重ねている「ファクター(要因)X」というものとも関連させて、日本人の感染率の低さや死亡者数の低さというものの、そのそもそもの根源的な要因を探ってみたい。 海外から指摘されている 握手をしない、ハグをしない、室内を土足で歩かない、などの生活様式の他に、日本人の内在する素因を辿り、遺伝子レベルにまでその感染率や死亡率などの原因を探って行くと言うその方途を山中教授は「ファクターX」と名付け、その「X」の発見分析に向けてこの先の検証を重ねて行くという形が明らかにされた。 その「ファクターX」の答えに結び付くヒントの1つが日本の清涼で豊かな『水』に有ると、私達は考えたい。 現に欧米の研究者や学者たちからも、大気汚染物質pm2.5の大気濃度が高い都市ほどコロナの死者が多い傾向に有る事が指摘され、経済優先でやみくもに開発、破壊された自然の影響や、空気、水質、森林などの劣化や汚染がそこに住む人間達の免疫力などを弱体化して来ているのではないか、と言う危惧が伝えられて来ている。 幸いにして日本には、豊かで清涼な『水』が私達の生命や生活を育み支えてくれている。 そしてその『水』を産み出しているものは、脈々と連なる山々であり、良質な土と森林群でも有るのだ。 言ってみれば、こうした山からの幸、自然からの恩恵を常に意識出来る民族なればこその、ウイルスへの耐性なのだと応える事も、不思議ではないと思う。 ここまで発展し利便性を高めて来た生活を、元に戻すような事はもちろん無意味な議論にすぎず、しかしながらこうして生命の基調として与えられて来ている豊饒な自然に対しての矜持を改め、そこに立ち返っての未来思考という基本姿勢に、今日1つの光を当てる事は必要な事ではないかと思われるのだ。 つまり、「新しい生活様式」を志向すると言う事は、私達にとって、かっての基本的な生活に戻る意識付けに他ならないのだと思う。 さて、話は大きく変わるが、゛温故知新”に関して、PL委員としてかねてから考えていた事がもう1つ有り、最後にその事に触れたいと思う。 私の毎日の日課に、早朝のお袋さんとの散歩がある事は前にコラムに書いた。 太田町公園から一蓮寺の境内を辿って行く散歩道で有るのだが、丁度去年の今頃、80歳を超えるご高齢のご夫婦がここのお墓参りに来ていて、擦れ違いざまの挨拶の折りにお互いに足を止め、しばし会話をした事が有った。 その折に大平洋戦争の話が出て、そのご夫婦の内の男性の方が、「この一蓮寺の境内は、子供時分の遊び場だった。」と語り始め、「7月6日の夜の甲府空襲はヒドイもんだったよ。」と話をつないでいった。 その時の情景について書かせてもらうと、「この太田町公園周辺にたくさんの焼夷弾が落とされて、辺りは煌々と火の海になって、逃げる場所もなくて道のあちこちに死体が有った。」との事。 「そしてなんとか生き延びて着のみ着のままで境内に来てみたら、たくさんの黒こげの遺体が山のように積み上げられていて、すっ裸に近い子供が、わんわんと泣きながら、そこに立ちすくんでいた。」と、その男性は目を潤ませながら話してくれたのだった。 この一蓮寺の境内を抜ける場所に、「いしずえ地蔵」と言うお地蔵さんの石像が建てられていて、たくさんの千羽鶴とお線香が絶え間なく添えられていた。私とお袋さんは必ずここで手を合わせてその犠牲者の方々のご冥福をお祈りしていたのだが、ここに表示されている記録を読むと!当時の戦渦によって亡くなられた太田町公園周辺の死者は386名とあり、そのほとんどの人がこの一蓮寺と公園内に避難していた人達と言う事が、後の資料の中にも書かれている。 甲府空襲によって合計1127人もの犠牲者が出たと有り、その多数の遺体はいったん一蓮寺境内に集められ、検視の上、家族に引き渡されたと言う記述もある。 この時私の母は英和の旧制2年生であったと言い、山宮の親戚の所に居住していたのだが、空襲の日の夜の光景は今でもまざまざと思い出せると言う。甲府の中心の方の空が焼夷弾の落ちる光の筋として眺められた事に驚き、その後の赤々と燃え上がった火災の炎の色に固唾を飲んで呆然と佇んで いたと語る。 その頃県庁に叔父が働き詰めていて、その身を心配する親戚の者から、様子を見て来てくれるように頼まれた母は、一人早朝に自転車をこいで市内へと向かったと言う。道路のアスファルトは爆撃の痕跡を生々しく残し、至る所が熱で歪んでデコボコに折れ曲がり、自転車で県庁付近に辿り着くのが大変だったそうだ。 途中に有った大きな缶詰め工場(現穴水駐車場、朝日町)はその爆撃の被害に合い、熱を帯びた缶詰めはパンパン!と音を立てて空に吹き飛んでいたのだと言う。 食料の乏しい時でもあった為、近隣の者達が焼け残った缶詰めを求めて次々と表れて来た光景もお袋さんの忘れられない1コマとなっている。 この甲府空襲の有った7月6日がもうすぐ今年もやってくる。 実体験としてその日の事を語れる人が少なくなってしまった。 だからこそ、私達はこの事実とそれに繋がる戦争の悲惨さ、惨たらしさと言うものを忘れてはいけないと考える。 本来ならライオンズのいわば機関紙としての役割を持つ『甲府城』に会員皆さんの戦争についての所感を頂き、伝え聞いた戦渦のあらましや自分自身で学び辿った戦争についての考えなどを書き記して置きたかった。 今年に入り何人かのライオンズメンバーに原稿を依頼したのだが、コロナ騒動に翻弄されてしまい、原稿を頂き編集校正などをするきっかけを失ってしまった。