「戦争の思い出とオリンピックに寄せて」
庭の木蓮が花開きました。
そこで一句 「木蓮花 コロナが来ようが 春は春」
自然はいつものように春を迎えている今日今頃、人間界はコロナウイルスに右往左往してなすすべもなくほんろうされております。人間はかくもおろかなものか、人類の歴史の中で戦争こそ不幸なレガシーだと思います。
それは人が人を信頼できない人間の性(サガ)ではないでしょうか。
先の戦争も我が人生にも不幸なスタートとなりました。
当時私はS15年生まれで当時の甲府空襲は五才でした。夜中焼夷弾が雨あられと降りしきる中を母の背中で太田町→国母→昭和→小井川方面へ逃げた記憶があり、当時肥料問屋を営業しておりましたので小井川の杉山商店に身を寄せました。
太田町の家は全焼。粗末なバラック小屋で生活しました。食料は毎日米はなく赤い雑穀「こうりゃん」を主食にしておりました。
母が後に言うには、訓勇は「今日もこうりゃんけ~!」
と言っていたそうです。
戦時中の記憶はここでストップしてこれ以上筆が進みませんので、オリンピックの話で残りを埋めたいと思います。
何故かと言うと、私のいとこにオリンピック三段跳び6位入賞 飯室芳男がいます。
戦時中のオリンピックは
1940 東京大会 戦争の為に中止
1944 ロンドン大会
1948〃(戦後初の大会で日本とドイツは招待されず)
1952ヘルシンキ大会(日本、ドイツ共に許される)
飯室芳男はヘルシンキ大会に出場し6位入賞を果たす。
しかもこの大会には山梨県代表にあと二人おりました。それは吉野トヨコ、円盤投げ4位細田富男(当時10秒4ー100m)予選落ちの3人が日本代表(しかも陸上で)となって出場したことは輝かしい山梨県オリンピック出場の歴史が有りました。
このようにオリンピックは平和の祭典でありますので、是非東京大会を成功させますことを祈りつつ、、。
(飯室L)
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